何を言ったかではなく「誰が言ったか」
なぜ、何を言ったかではなく「誰が言ったかが重要になる」のだろうか?
社会人5年目になる僕の最近は、このことについてばかり考えてしまうときがある。
わかりやすく言い換えれば「この人が○○と言うからそれは正しい、こんな奴が△△と言うから信用できない」ということだ。
なぜこんなことを考えるようになったかというと、それはある食事会に参加していた僕よりも社歴は短いが、歳は上の方の言葉だ。
その人は食事会の席で、ひたすら僕に対して 「結果を出すためには○○しなければならなくて…××だからお前はダメなんだよ…」とばかり言ってきたのである。
社歴の短さや結果の有無に関係なく、会社の上層部から日々の頑張りを見て期待されているというところだけで比較して、僕に対してマウントを取ってくる。
だが、その人は実際に結果を出しておらず、「俺は会社から期待されているかもしれない」という根拠のない自負があるだけだ。
なぜかどうも釈然としない。
その人から感じる違和感は何か?
その理由はすぐにわかった。
「結果」を出していない人間が何と言おうと響かないということだ。
つまりこうだ。日本の義務教育では、結果よりも結果を出すために頑張った過程を重視する場合がある。
だから、「惜しい」「あと一歩だったね」と結果が出ていなくても、「でも頑張ったね!」と評価される。
しかし、今の僕は義務教育に守られているのではなく、会社という組織の中で闘っている人間だ。当然、結果が出なれば評価はされない。
たちまち無能というレッテルを貼られる。
頑張ったのに結果が出なかったけれども、頑張ったことを評価されて満足してきた人間は、「結果」を重視される社会人になると、挫折や自分の無能さをしって非常に辛い思いをすることだろう。
実際に僕もそういう経験をした一人だ。 もちろん、結果を出すためには努力が必要だと思う。
そして、結果が出るまでやり続けなければならず、結果が出てから満足すればよいはずだ。
頑張ったことだけに満足していては、結果が追いついてこない。
だからこそ、結果が出て初めて努力が無駄ではないと言える。
努力を無駄にしないためにも、結果にこだわり続ける意識を持つことが重要だ。
結果を出してこそ、周囲からの評価が変わり認められるようになり、結果として自分の意見も通りやすくなるのではないだろうか。
結果を出していない人間の仕事論を聞くほど、虚しいものはない。
しかし、仕事論を説く本人がその事実に気づくことはない。
自分の仕事論を語りたいのであれば、それなりの結果を出してからでないと、相手に響かないだろう。
どれだけ他人からの評価が良くて、人生経験でマウントを取ろうとしても、その人の結果がないと何も響かない。
結果を出した人間とそうでない人間を比べたとき、同じ言葉でも相手への響き方が変わってくる。
自分の言葉が皆に響かない…と思っている方々。
まずは他を圧倒する結果を出す努力を続けててみてはいかがだろうか。
と思うのであった。
kamasu